多目的ダムの登場
治水を目的としたダムが建設されると、今度は治水と利水双方の機能を組み合わせた多目的ダムの建設が志向されるようになった。既に731年日本において僧・行基が治水とかんがいを目的とした昆陽池を建設していたが、理論自体は提唱されていなかった。多目的ダムの理論を提唱したのは1889年、プロイセンのインツェが最初であり、それを1902年にマッテルンが経済性と技術的理論を結合した形で体系化した。こうしたプロイセンの治水・利水理論は1913年にプロイセン水法として纏められた。これは治水と利水を総合的に運用する法整備として近代における河川関連法規の模範ともされ、その後1918年のスウェーデン水法、1919年のフランスにおける利水関連法規、1920年のアメリカ連邦水力法、1934年のオーストリア水法など諸外国に多大な影響を与えた。
こうした多目的ダムによる治水・利水の総合的な運用は、河川総合開発事業として発展するに至った。一つの河川にダムをはじめ用水路や水力発電所を建設し、治水やかんがい、水道供給、発電を行うことで農業・工業生産力の向上を図り、雇用を安定化させ国力を高めることを最終目的にした事業であり、流域の広範囲に亘って大規模に実施された。特にアメリカにおいては金融恐慌の後、雇用の拡大と工業生産力向上を目指して大河川の総合開発を開始した。1936年にはコロラド川に当時としては世界最大級のフーバーダムを完成させ、さらに大統領フランクリン・ルーズベルトはミシシッピー川の支流・テネシー川に多数のダムを建設して洪水調節と水力発電を行うテネシー川流域開発公社(TVA)を設立、強力な総合開発を行った。これによりアメリカ経済は回復基調となり、原子爆弾の開発を始めとして第二次世界大戦を遂行するだけの国力を持つに至った。
このTVAの成功は諸外国を刺激し、第二次世界大戦後各国で河川総合開発が行われた。代表的なものとしてはソ連の五ヵ年計画に基づくエニセイ川(ブラーツクダム・クラスノヤルスクダムなど)・ヴォルガ川・ドニエプル川(建設計画自体は1920年代に採用されたのだが)の総合開発、インドにおけるダモタル川総合開発事業、オーストラリアにおけるスノーウィーマウンテン総合開発事業などがある。日本では1938年に物部長穂が「河水統制計画案」として提唱し、その理論は戦後打ち続く洪水に対処するため利根川や淀川など主要六河川において「河川改訂改修計画」の策定へつながり、利根川水系8ダムなどの大規模河川総合開発が行われた。